【CPBL情報】国際試合で自信をつけた、陳傑憲 最強イケメントップバッター

「人帥真好!」(かっこよくていいな!)この流行語は、陳傑憲には全く違和感なし。顔が有名な俳優呉奇隆とそっくりで「CPBLの呉奇隆」と呼ばれ、彼は統一7-ELEVEnライオンズのトップバッターとしてチームの顔になり、チームメートのムードメーカーでもある。イベントのステージでは、自らの「イケメン」というイメージを気にしないように楽しく歌ったり踊ったりする彼を見て、ファンの中で大人気となった。
取材・文/黄雅碧 写真/戴嗣松 翻訳/黃意婷

陳傑憲profile
.生年月日:1994.01.07(23歳)
.身長/体重:173cm/73kg
.守備/投打:内野手/右投げ左打ち
.経歴:高雄市中正小学校→大仁中学校→日本岡山県共生高校→台湾電力→統一7-ELEVEnライオンズ
.2017シーズン打者成績
試合 打数 安打 本塁打 打点 得点 出塁率 長打率 打率
45 180 70 1 13 48 .459 .533 .389

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父親が中正小学校、大仁中学校野球部のコーチで、兄も野球部にいたため、小さい頃から、陳傑憲はよく留守番をしていた。一緒に遊ぶ人がいなくて、寂しい陳傑憲は小学一年生の時、母に野球をしたいと言った。「それまでは小学校の放課後、いつも母と一緒に野球部の練習を見に行っていたが、私はそばで砂遊びをしていた。父がソフトボールをしに行くときも連れて行ってもらっていたため、私にとって、おもちゃはボールだという印象が強かったね。」

父がコーチだったため、野球部での練習では、親子でなるべく話さないようにしていた。陳傑憲が内野で練習すると、父は外野に行ってしまった。試合中に上手くできなくても、「コーチ」も何も言ってくれなかった。父がお酒を飲んだ時だけ、野球の事を教えてくれたと、陳傑憲が笑いながら言った。
中学を卒業し、兄と同じ日本の高校へ進学しろと父に言われ、行く気は全然なかったが、親の強い意向で結局日本へ行くことになった。出発の日に、わざわざ野球部の仕事を休んだ父が空港まで見送りに来た時、「空港行きの新幹線に乗ったときは、まだ何も感じなかった。ボーディングゲートに向かうと、父が手を振った。私が父の後ろ姿を見た時、「父さん本当に行っちゃうの?どうしよう?」と涙が出た。その時、父がこうしたので(涙を拭いたふりをして)、泣いていただろうね。もともと僕は日本行きを拒否していたが、父親も別れがたいという気持ちを隠していたとわかって、「よし、ぼくも頑張ろう!」と気持ちを切り替えた。
日本で生活するため、日本の文化にも慣れないといけなかった。例えば、試合中の態度が違った。昔は試合が始まってすぐ大幅に負けていると、気合いも抜けてしまった。「でも、日本では試合中いつも声をかけて、守備の時も攻撃の時も、一回から最後まで声をかけなければなりません。いくつかの試合は、これによって逆転勝ちができて、私も心を打たれましたね。
日本語がまったく通じなかった時、一人で日本へ行った陳傑憲はそれを難所とは思わず、「台湾出身ですが、日本語でインタビューを受けるようにしていました。難しいですが、できるだけ上手く伝わるように頑張りました。」重ねた練習で日本語を身につけて、今ではペラペラ話せるようになった。
小さい時から、自分の選んだ道を歩いてきたが、高校の日本留学だけは父の要望であった。拒否して、適応して、最後は満足して帰国した。日本留学の三年間で大人になり、かけがえのない経験となった。でも、日本での生活を話すと、父への文句を言いたくなる。「その三年間で一度も電話をかけてくれなかったんですよ!こんなふうに息子を海外で生活させるなんて…」

高校卒業後、父は陳傑憲に日本に残って欲しいと言った。しかし、日本から帰国して、アマチュアの台湾電力に入団した。それで家族を安心させることができると思ったが、U-21野球選手権大会が終わったら、また父に「どうしてプロに行かないの?」と聞かれた。「いつも夜11、12時頃電話がかかってきて、毎回プロに行くべきだと言われ、私も毎回嫌だと答えました。だから、夜中の電話にはあまり出たくなかったですね」と笑いながら言った。
当時、台湾電力の先輩から話を聞いて、台電での生活は安定している、それに対して、プロ野球は競争が激しくて、リスクも高いという。そのため、陳傑憲はプロに行くつもりは全然なかった。それが、U-21に参加した後、それまで動かなかった気持ちに変化が現れた。
2014年、U-21の後、マネージャーに何度もプロに入る意向について聞かれたが、いくら考えてもプロを諦めることにして、台湾電力の社員として働きはじめた。2015年、アジア野球選手権大会のあと、チームメートで親友の曹佑寧が、こう聞いた。「一生同じ場所にいて、安定した生活をする事と、カラフルの生涯と、どっちがいい?」そのとき、陳傑憲はどちらでもいいと思った。それで、曹佑寧が、「ぼくが君だったら、絶対ドラフト会議に参加するよ!」この言葉でやっと心を打たれた。「このまま安定した生活を続けると、人生つまらないじゃない?」という考えが何度も浮かび上がり、結局、CPBLのドラフト会議に申し込んで、統一7-ELEVEnライオンズの一員となった。

プロに入って、早くも一軍での出場ができた。しかし、「ライオンズの二巡目」「ユーティリティープレイヤー」と期待された陳傑憲は、うまくアピールしようとすればするほど、プレッシャーも強くなる。明るいというイメージを持ちながらも、実は新しい環境になかなか馴染めない性格だ。小さい時からずっと、新しい環境に入るたび、一定の時間が経たないと慣れることができなかった。プロ入り後も同じで、「入ってきたばかりで、コーチ、チームメート、球団の人と接しなければならないし、試合中にミスや挫折を経験した時、自信も少なくなりました」と語った。
プロの環境に慣れてきた頃には、考え方もだいぶ変わった。「去年と同じこと(ミス)があっても、ポジティブになり、プレッシャーを増やさない。今度、同じボールが来たらうまく取れると、いい結果にもなりますから」という。昨シーズンは「急」いだせいで、ミスをしたため、コーチから「ゆっくり」しなさいと指示された。急がば回れということわざを教訓とした。「ボールをきちんと取らないと、投げることもできないでしょ?」
コーチも先輩も、新人の陳傑憲にとっていいアドバイザー。先輩の林志祥選手にいちばん憧れ、色々勉強させてもらっているようだ。守備の時、リードしてくれるだけでなく、いつも暖かく励ましてくれて、ミスしたときも「大丈夫だ」と優しく言ってくれる。打撃についてもよく先輩を見本にした「林志祥先輩は小柄なのに、いいバッティングができて、素敵だと思います。それから、TAKE先輩(潘武雄選手)も全方位に打つことができ安定性を持つ選手として、ぼくの考え方に刺激を与えてくれます。」
また、二軍の打撃コーチの劉育辰コーチにも感謝している。劉育辰コーチはスプリングキャンプの時、一人一人の選手をよく見て、時間をかけて選手と今後の対策について話していたという。シーズンが始まっても二軍で一軍の試合を中継で見て、アドバイスをメッセージで送ってくれる。コーチがしてくれたことは、全部きちんと見てくれていると、いつも感激している。台湾では「成功した男には、後ろで支える女がいる」と言われていますが、「劉育辰コーチはまさに、後ろで支えてくれる女房役ですね!とても繊細な方なので、選手の『スタイル』がそれぞれ違うのに対して、コーチも違う教え方で、どの選手に対しても真面目に色々と教えてくれます。」陳傑憲が笑いながらこう言った。

今年のスプリングキャンプで、チームのトップバッターという重い責任を任された。オフシーズンには長打力をつけるトレーニングを受けていたが、確実なバッティングが要求され、走塁の観念やテクニックについてコーチと対策を練ることになった。黄甘霖監督はCPBLで有名なトップバッターだったため、監督のような一番見習うべきお手本は、もちろん勉強させてもらわないといけない。
また、侍ジャパン壮行試合も自信をつけてくれたポイントとなった。調子が悪くて、試合に参加するかどうか迷っており、「自信もないし、調子もよくないし、日本代表との対戦でうまくプレーできるか?」と悩んだ末、先輩やコーチに励まされ、第2試合でスターティングメンバーのトップバッターとして、猛打賞を飾り、唯一の打点に貢献した。「今回の壮行試合によって自信がつけられ、失敗を恐れずに頑張ることができたのです。」
アマチュア時期に1番、2番として活躍した陳傑憲は、トップバッターの仕事にはもう慣れている。今シーズンの成績を見ればわかる。9打席連続出塁と言う記録を達成し、出塁した後もリードの距離でピッチャーを惑わしている。「高い出塁率。という目標を設定し、走塁は、チャンスがあれば次の塁を狙い、あとは後ろの打者に任せます。」
出塁してからは、相手のピッチャーを「邪魔」できるように、対戦相手のピッチャーをよく見ている。しかし、相手チームも対策を立てるため、プロの新米として、試合の経験を重ねて頑張っていくしかない。対戦ピッチャーの「邪魔」になったことについて、「長打を打つパワーは持っていませんが、とてもインパクトのある打者になろうと思います」と笑いながら言った。
試合中、チームのムードメーカーとして、雰囲気を明るくする性格だが、落ち込むときもある。今は、「試合を楽しむ」ことを習っているのだ。その点について、中信ブラザーズの林智勝選手やラミゴモンキーズの陽耀勳選手のことを羨ましがっている。「彼らはとても積極的で、結果もそんなに気にせず、試合を楽しんでいる。それが結果としていい成績が残ったのでしょう。」
顔が有名な俳優、呉奇隆とそっくりのため、呉奇隆が演じた「四爺」というあだ名をつけられた。悩んで悩んで、やっとプロに入ったが、チームのムードメーカーでもあり、ファンの中で「ジャニーズ」レベルのイケメンとしてスターとなった。一番大事なのは、監督とコーチから任されたことを一生懸命頑張って、自分なりのトップバッターの歩み方を築いていくことだ。