今シーズンの中信ブラザーズには、何人もの選手が長年の練習を乗り越えて、やっと一軍で活躍し始めた。プロ六年目のキャッチャー黃鈞聲が、その中の一人だ。五月の下旬に一軍昇格後、優れた打撃成績で二つの試合でその日のMVPを獲得した。今まで幾度となく挫折をしてきたが、もう嘆かず、積極的に笑顔で頑張れるようになったのだ。
取材/李艾純 写真/戴嗣松.羅紹文 翻訳/黃意婷
黃鈞聲Profile
生年月日:1989.01.19(28歳)
身長/体重:178cm/100kg
守備/投打:捕手/右投げ右打ち
経歴:兄弟エレファンツ(2012~2013)→中信兄弟(2014~)
去年の8月10日、黃鈞聲が打席に立ったとき、左手首にデッドボールがあたり骨にひびが入った。その怪我を治すために手術をし、半年以上も休んでいた。今年のスプリングキャンプまで、ボールにもバットにもほとんど触らなかった。その間、打撃コーチとスイング軌道の修正ついて話し合い、平常心を持って積極的に練習したら、いい結果を迎えることができた。「二軍にいる間は、いつでも一軍へ上がれる。という心の準備ができました。まあ、どうせ同じ試合をするから、時間、球場や難しさなど、一軍と二軍の違いを考えないで、自分ができる準備をしたらいいんですよ。」と言った。
今シーズンが始まった時、一軍登録はされていなかったが、黃鈞聲はずっとチャンスを掴もうとしていた。5月28日、一軍に上がって五回目の出場、唯一Lamigoモンキーズから打点を上げ、猛打賞でチームは完封勝利を収めた。
6月9日、黃鈞聲の今シーズン初のホームランによって、富邦ガーディアンズに逆転勝利をし、そのホームランが勝利打点にもなった。それから、同試合の満塁の場面でフェンス直撃のツーベースヒットも放った。主戦捕手の責任を担い、連続8試合ヒットを打った彼は、まさに「伏すること久しきは、飛ぶこと必ず高し」という言葉が似合う。
二年目のスプリングキャンプで怪我して、同僚に八つ当たりも
兵役が終わって2012年シーズン、兄弟エレファンツの一員となり、「新世代の強打捕手」と期待された。開幕試合ですぐスターティングメンバーとして出場し、初ヒットも初打点も記録した。しかし、始まりが良かっただけに、そこからずっと順調にいくわけではなかった。アマチュアとプロの違いにはまだ慣れず、大先輩である陳智弘捕手もまだ主戦捕手だったため、黃鈞聲はほとんど二軍にいた。「一年目はとても興奮していましたが、自分には欠けていることがたくさんあって、経験もないので、ぼんやりと一年を過ごしました。先輩たちが教えてくれましたが、どうやって調子を調整するかわからなくて、結局自分が調子の良い状態には戻れませんでした。」と思い出した。
しかし、球団から期待されていることは明らかだ。そのシーズン後、一回目のアジア・ウィンター・リーグに参加をし、試合によって経験を重ねることができた。しかし、ウィンターリーグで学んだことを翌シーズンに発揮しようとしていたが、スプリングキャンプの練習中、不注意で右足の膝の半月板に怪我をした。その怪我で、プロ二年目の始まりが手術とリハビリとなってしまった。思いもよらないこの怪我は、高3のことを思い出させた。当時はAAAアジア野球選手権大会の選抜を決める選考選手に選ばれたが、結局左手首をデッドボールで故障し、辞退することになった。複雑な思いがまた湧いてきたが、何もできなかった。「当時の気持ちとは全く同じです。ちゃんと自分の調子を上げてきたのに、怪我をしてしまいました。その事で周りの人に八つ当たりをしましたが、最後はやはり全てを受け止めるしかなくて、早く球場へ戻れるように治療を受けました。」
その時、新しいトレーナーの邱鼎竣が入団して、コーチの要望もあり黃鈞聲のことを特に気にかけて、リハビリを担当することになった。しかし、当時の黃鈞聲は人生のスランプや怪我をした体への向かい合い方がわからなかったため、トレーナーに八つ当たりをした。そのことを思い出して、申し訳ない気持ちがいっぱいだった。「痛くて、気分が悪かったため、よくトレーナーに怒りました。リハビリをしたのにすぐに効果が出ず、痛みが続いて怒っていた時には、邱鼎竣トレーナーが『成果が上がらなくても、リハビリを続けるんだよ。だれに怒っても、リハビリはまだ続けるんだよ』と言ってくれました」。やさしいトレーナーの邱鼎竣がいてくれたおかげもあり、また、大学時代のルームメイトの黃梓育も入団し、よく二人でエビ釣りをしたりして、黃鈞聲はやっとこのスランプを抜け出した。
陳智弘コーチに教わり、「配球術」を身につける
「最初の二年は、自分が何をしていたかはっきり言えませんでした。怪我とリハビリの繰り返ししかありませんから。でも、諦めなくて本当によかったです。支えてくれる人がたくさんいますからね。」黃鈞聲は、諦めず頑張れるのは、目標ができたからだと言った。その目標が、今年コーチになった先輩である陳智弘だ。
「先輩はプロ野球で何年もプレーをし、たくさん色んな事を経験していると思っているので、いつも先輩に教えてもらっています。」黃鈞聲はよく試合が終わった後、陳智弘コーチに一つ一つのプレーについて、うまくできたかどうか、または何かアドバイスがあるかと聞いた。現役時代守備が優れていた陳智弘コーチは私に何でも教えてくれる。
捕手の仕事の中で、黃鈞聲は「配球」がいちばん難しいものだと思っている。時間や試合の状況によって、策略も常に変わってくるため、陳智弘コーチに教えてもらい、どのように打者の動きや意図を観察するかなどを身につけるようになった。試合の後、その日の策略を振り返って、やり方は適切かどうかについてコーチと話し合う。それから、陳智弘コーチは捕手陣の盗塁阻止率を挙げるため、本塁から二塁への送球の秒数を測り、スピードを重視するだけではなく、送球のポーズも角度も毎回同じじゃないといけないと要求している。
2012年年末、中信球団が若手捕手王峻杰を獲得し、2013年年末、アメリカから帰国した陳家駒が入団した。黃鈞聲にとって競争が激しくなったが、もっと真面目に練習し、そのプレッシャーが自分の仕事を貫くパワーになった。プロ六年目に入ったが、試合数はまだ200に達していない。つまり、年に30試合ぐらいにしか出場できなかった。一軍に登録されても、ブルペン捕手の仕事だけする日もよくあった。しかし、その事を気にせずに、うまくプレーすればきっと1軍の舞台に上がれると思っている。「陳瑞昌コーチにこう言われました。準備を良くして、チャンスが来たら掴めばいいんだ。掴んだら君のものになるけど、掴めなければ文句など言わないで。と、メンタル的な事についてよく話をしてくれて、私の消極的な考え方を無くしてくれます。」
女房のために性格を変え、「ポジティブなガキ大将」へ
しかし、昔の黃鈞聲は今のように前向きではなかった。いつも思い通りにならないことを心の中で堪えて、立ち止まることになった。一言で自分のことをどういう?「僕?悲観から楽観になったでしょう」と、少し考えて、そう簡単に答えた。性格が変わった理由は、妻と出会えたことにあると言っている。
二人は2013年の年末に出会い、付き合ってからすぐに相手と結婚することを決めた。妻と出会うまで、野球のことしか知らず、すべての物事への考え方もすべて同じだった。そして、人見知りだったため、人と話すのも好きではなかった。妻に人とのコミュニケーションが大事だというアドバイスをもらい、楽しくやってみようと考えるようになった。「妻の仕事の関係で、色々な人や物事に接する機会も増えました。人生は山あり谷ありと言うんですが、落ち込んでいる人でも前向きな姿勢でいる姿を目の前で見たから、簡単に負けない。という積極的な考え方を学びました。」
昔の黃鈞聲は消極的で、試合で上手くいかなければ笑顔が消えて、試合や練習が終わったら、部屋に閉じ込もったり、一人で海辺を散歩したりして、誰に何かを聞かれても「平気だよ」としか答えなかった。特に一年目、自分には本当にプロになれる資格があるのかと、よく疑っていた。幸いに、妻の影響で、笑顔が力になると思うようになった。息子の「パンディ」が生まれてから、父親としていい手本を示そうと頑張っている。「子供の教育は大事ですから、あまりネガティブに考えてはいけないと思います。もし怖い顔で家へ帰ったら、子供をびっくりさせますよね。」
去年怪我をする前、バッティングの調子がとても良く、連続4試合ヒットを打ち、猛打賞をしたこともある。突然怪我をしてしまい、しょうがないと思ったが、その後早く気持ちを整理して、考え方を変えようとした。「まあ、今回は怪我をしましたが、あまりネガティブになりませんでした。体調を回復させ、筋トレをよくして、今年絶好調で復帰できるように頑張ってきました。」笑いながらこう言った。怪我が回復している間、時々妻と子供を連れて外へ遊びに行っていた。家族と過ごす時間が多くなり、リラックスもできた。もちろん、今回は、もう誰にも八つ当たりしなくなった。
二軍も修行 笑顔も練習
最初から前向きな気持ちでいれば、試合や人生で遭った問題も簡単になるだろう。黃鈞聲に、考え方が悲観から楽観になったことは簡単だと思う?と聞いたら、「簡単じゃありませんよ。難しい、とても難しいです。毎日前向きでいること、笑顔でいること、昔の僕には、全然簡単じゃありませんでした。それをするために、自分を無理させていたと思ったこともあります。」と、すぐ答えた。自分との対話が大事で、何か悪いことがあっても、笑顔でいることは忘れてはいけないと思うようになった。それから、もっとポジティブになり、うまくいかなくても、今度やり直せばいいと思い、にっこり笑えば大丈夫だ。毎日の生活は人生における修行ということだ。球団の心理カウンセラーも、今までのネガティブな考えを排除してくれている。
プロ生涯が始まってから何年間も二軍にいたが、黃鈞聲はそれを「修行」のいいチャンスだと思っている。今までは陳瑞昌、許閔嵐などのコーチたちに教わっており、今は外国からの監督とコーチのもとで、違う視野で勉強中だ。「二軍にいることは悪いことじゃないと思います。二軍では諦めないことが勉強できて、一軍を目標にしています。それから、一軍へ上がったらどうやってチャンスを掴み、一軍の舞台に立ち続けるかを勉強するんです。努力しても必ず成功するわけじゃないけど、努力しなければ何もありません。嘆くよりも、努力をしたほうがいいと思います。」黃鈞聲が語った。後輩たちに、試合に出ても出なくても、その日の仕事をしっかり完成させるのが第一で、次の日になると、また新しいスタートを迎えると伝えようとしている。ずっと頑張って日頃から準備をしておけば、チャンスがきた時に、そのチャンスをつかむことができると思っている。
6年かけても忘れられない悲しみ タトゥーで亡き父親を偲ぶ
今シーズン、黄鈞聲が左手にタトゥーを入れた。英語で、「親愛なる父さんへ。いつか父さんの誇りになる。いつも支えてくれて、励ましてくれて、今の僕を育ててくれて、ありがとう。永遠に愛している。息子より。」と書いてある。父親が新人の年に、交通事故でなくなったのだ。土曜日のダブルヘッダーの間だったことは、今でもよく覚えている。その日、試合中に心臓の動きがおかしくなって、試合が終わってホテルに帰ると、悲報が届いた。
父親を思い出すと、いつも明るい顔が曇った。父親は黄鈞聲が野球を始めてから一番の大切な支えでもあり、ずっとそばで励ましてきてくれたからだ。「高三のとき、嘉義県で試合がありましたが、父さんが会社を休んで、台南からオートバイで球場へ向かい、試合が終わったらすぐお仕事に戻りました。また、父さんは時々仕事が終わった後、友達と飲みながら、『これ、息子だよ』と自慢していました。」と父親を思い出しながらこう語った。プロに入って、父もよく内緒で試合を見に行った。プロでの初出場の日に、父がわざわざ台南から台北の天母球場まで駆けつけてくれた。二軍にいた時も最南端の屏東球場まで来てくれた。父との早すぎる死別は黃鈞聲にとって、とても大きなショックであったため、タトゥーで永遠の印として父を偲ぶしかない。
「今でも忘れられないんです。これは、一生忘れられないことでしょう。いい成績は見せてあげられないし、結婚式も子供も見せられなかった。だから…とても残念です。いちばん悔しいことでしょう。頑張っていい成績を残して捧げることにしようと思います。」