【CPBL情報】クローザー伝説、陳禹勳

 

 

 

 

 

 

 

学生野球の絶対的エースだった陳禹勳。怪我で手術もしたため不安もあったが、復活した姿でプロデビューを果たし、注目新人になった。また、今シーズンは新たなタイトルも獲得した。打者が活躍しているリーグだが、守護神としてチームの勝利に貢献している。彼は、「郷長」陳禹勳だ。

取材/楊啓芳 写真/戴嗣松、羅紹文 翻訳/黄意婷

 

 9月9日、亡くなったおばあちゃんを見送るため、休みを取っていた陳禹勳は、九回表に登板して、チームの逆転勝利に貢献した。それが今シーズンの33回目のセーブで、最多セーブ投手も決まった。試合の後、ベンチに戻った時「この賞をおばあちゃんに届けたい…間に合わなかったけど、きっと、見守っているでしょうね…」と、涙をこぼしながら言った。

 その日を振り返ると、「球場へ向かっているとき、直感で『今日は絶対勝って、僕も絶対セーブを取る!』ということがわかったようでした」と語った。球場に戻った時はすでに5回裏だったが、着替えてウォーミングアップをして、ちょうどチームが3点を取って逆転したところだった。点数も6対3になり、セーブポイントが取れるチャンスだった。あまりにも偶然だったため、陳禹勳がその瞬間を思い出すと、涙が止まらなくなった。

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遅刻したらおばあちゃんちに逃げて おばあちゃんの酢豚で癒された

  おばあちゃんとの思い出を話すと、中学校のことがすぐ心に浮かんだ。そのとき、家が迴龍にあって学校と離れていたため、毎朝なかなか自分で起きられなかった陳禹勳にとって、実に大変なことだった。野球部の朝の練習は7時からだったが、「親には、自分が野球部に入ることにしたので、自分で学校へ行きなさいと言われました。もちろん、親に送ってもらうこともだめでした。そのとき、野球部の監督は陳憲章監督で、時間厳守をいちばん重要視している人でした。」ある日、3日連続で遅刻をしてしまい、うさぎ跳びをさせられた。その後、また遅刻をして、母から監督に電話して休みを取ってもらうように伝えたが、母に断られた。陳禹勳は泣きながら、バスでおばあちゃんの家へ向かった。孫が大好きなおばあちゃんは、監督に電話しただけでなく、市場まで連れていってくれた。「その日のお昼は、僕の大好物の酢豚を作ってくれましたよ。晩ごはんの時間になると、またおいしい料理を作ってくれて、おじやおばたちに羨ましがられていたんですよ。」

  陳禹勳が野球を初めたのは小学校のときだった。あれから、おばあちゃんがちょこちょこ球場へ見に来てくれてた。ヒットが打てなかったときは、よく「どうしてスイングだけしてダグアウトに戻ったの?」と聞かれた。プロに入ってからも、時々桃園球場まで応援に来てくれた。「おばあちゃんが見に来たら、いつも『おばあちゃんの魔球』(デッドボール)を投げてしまいました。なぜかわかりませんが、おばあちゃんが見に来た試合では、デッドボールを投げてしまって文句を言われていましたね。」笑いながら、そう語った。

 記録を残すことをもうおばあちゃんに見せられないが、大好きなおばあちゃんのために、次々と新しい記録を築いていく。前半が終了する頃、22セーブで2011年の庫倫(Ryan Michael Cullen)が残した半シーズン最多セーブを破った。また、8月の終わりに30セーブを達成し、CPBL史上4人目となった。9月19日、34セーブ目を獲得し、CPBL記録の35セーブには、わずか一歩の差だった。その記録は、元ラミゴ・モンキーズの米吉亞(Miguel A. Mejiaミゲル・メヒア)が2014年に残したものだった。陳禹勳がメヒアを超えただけでなく、通算50ホールド、50セーブを達成し、CPBL初の「50-50」投手になった。

初のシーズンでメヒアと勝利の方程式を確立し30ホールドも獲得した

  メヒアが記録を残した年が、ちょうど陳禹勳の最初のシーズンだった。当時、セットアッパーとして8回のマウンドを担当し、9回になるとメヒアが抑えとして最後までチームの勝利を守ってくれた。そのシーズンの陳禹勳は、新人ばなれした優れた投球を見せ、30ホールドも獲得した彼は、メヒアと同じチームの勝利の方程式の一人となった。新人王の競争ではチームメイトの藍寅倫に負けてしまったが、その投球はファンたちに強い印象を残した。メヒアのことを思い出すと、毎日の試合前にジョギングをして、食事のあとにはソファーで5回まで寝ることが印象的だった。

 「そのとき、メヒアが何の記録を残したかよくわからなくて、そのシーズンの最優秀選手の候補になったとき、彼の成績を見たら、防御率は僅か1.24で、すごい!と思っただけです。」陳禹勳がそう思い出した。連続34セーブできたのは、決して簡単なことではなかった。自分がこの記録を追い抜いている間、メヒアがどれだけ凄いか、やっとしみじみとわかったのだ。

 2015年のシーズンでは、中継ぎ投手と抑え投手を両方したが、一年目のように上手くいかず、防御率が4.91に上がった。自信をなくした陳禹勳は、「その時は調子があまりにも悪くて、台湾シリーズの直前に投手コーチの呉俊良コーチに、『僕を6回か7回のセットアッパーに変更してくれませんか?』と直訴したんです。」しかし、呉俊良コーチの信頼と励ましの言葉によって、台湾シリーズを乗り越え、自信を取り戻すことができた。

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 中継ぎから抑え投手へ 失敗を気にせず成長できた

  去年の前半、Lamigoのクローザーは林柏佑で、陳禹勳は中継ぎ投手として8回のマウンドを任されていた。シーズンの半ばになると、林柏佑が怪我をしてしまったため、二人の役目も交換となった。それにもかかわらず、陳禹勳がその安定した投球で11回のセーブを残し、最多セーブ投手の陳鴻文にわずか4セーブ差で負けていた。そのようなクローザーとしての才能を披露したため、今年のスプリングキャンプに、チーム唯一のクローザーに任された。中継ぎと抑えの違いについて、「9回に登板することは、最後まで投げることを意味していると思います。失点で同点になってしまった場合は、他の投手の負担になるだけではなく、野手たちもまた試合をしなければならないので、すごくプレッシャーが感じられますね。」と自分の感想を述べた。

 今年の成長は、失敗を気にしないことだ。心理的成長について、こう語った。「昔は、一点だけでも失点すると、自分は失敗したと思っていました。しかし、今年は失点しながらもチームが勝ったとき、チームメイトが喜んでハイタッチするのを見て、チームの勝利が一番大切なことがわかって、自分の小さな失敗を気にしなくなることができました。」

  今年、陳禹勳の最多セーブの回数は、二位の三倍以上を上回った。そのような優れた成績を残すことができたのは、チームの勝率が高いからだと思っているそうだ。「僕の投球がどんなに良くても、チームがリードしないと、セーブポイントが取れませんよね。」と、謙虚にチームメイトのことを感謝した。「打者たちや中継ぎ投手がいるおかげで、僕はセーブポイントを取れるチャンスが与えられるのです。」

 フォークで勝ちまくり 相手がいないとスピードが出ない

  陳禹勳が打者を抑える武器は「フォーク」だ。「みんなが遅い球を待っているのを知っているからこそ、わざと使っているんです。僕のフォークにはとても自信がありますから。」このすごいフォークは、中学校のある出来事から誕生した。ある日、ボールで遊びながらフォークの投げ方を試していた。普通のフォークは、二つの縫い目を握ることと縫い目を握らないことがよく見られるが、一つだけ縫い目を握ることがピンと来て、意外といい効果があった。「牛に引かれて善光寺参り」のように、そのフォークが陳禹勳の得意技になり、また、オーバースローとサイドスローを使うことによって、打者を抑えることができる。一年目のK/9は7.69だったが、今年は9.79に上がり、三振力の成長もし、しっかり守護神としてチームの勝利を守り続ける理由だ。

  今年は優れた成績を残しているが、頻繁に登板することが疲労になると、コーチやファンに心配されている。しかし、他の選手と違い、休みが多すぎると、逆にうまく投球できない選手だ。「この間、11日間も試合に出ていなかったため、その後の登板の時、フォアボールを投げ続けてしまいました。」時々コーチにも休むことを勧められるが、自分が投げたいと言ったらコーチも本人の意志を尊重してくれる。ブルペンで練習している時は、球速は140キロが限界だが、マウンドに上がったら、145キロを超えることもある。「仕方がない。打者を見ないと早く投げられませんね!」そんな陳禹勳にとって、試合ができないのが一番嫌なことだと言える。

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学生時代、手術を二度も受け 最年少の「不死鳥」

 高校時代、頻繁に登板していたため、三年生の時に肘の靭帯が切れて、トミー・ジョン手術(側副靱帯再建術)を受けることになってしまった。その頃はこの手術について全然詳しくなく、手術を受ければすぐピッチングできると思っていた。しかし、手術の後、手が全く動かなかったため、かなり慌てていた。「本当にびっくりしましたよ。肘を動かそうとしても全然だめでした。無理に動かして激痛を感じたこともあります。その時、手術を受けたことを後悔して、リハビリもいろいろ大変だったので、やる気も失ってしまいました。」

  高校を卒業して、台北体育学院へ進学したが、まだリハビリ中だったため、最初はボールを拾う事しかできなかった。他の人が投げるのを見て、悔しい陳禹勳は監督に「肘はもう痛くないから、投げさせてください」と言い張ったが、肩が痛くなってしまった。一年後、肩の靭帯を直すために、もう一度手術を受けた。二回の手術の経験を通じて、リハビリの大切さがわかった。「手術を受けて、昔できたことができなくなりました。他の選手がプレーしているのを見て、自分もできたのに、どうして今はできないんだ?と自分に問いかけました。」そのため、二度目の手術の後、リハビリに集中して、三ヶ月後には普通に投球することができるようになった。まさに「不死鳥」(フェニックス)のように、再び蘇ることができた。

  二度も手術を受けた陳禹勳は感謝の気持ちがいっぱいだった。手術をするとき、父が医療費を揃えられなかったため、主治医の韓偉先生が呉火獅基金会に費用を出してもらった。「みなさんがいなければ、今の僕はピッチングできるかどうかわかりません。本当に感謝しています。」また、理学療法士の李岱芹先生のサポートにも、とても感謝していると言っている。

虹を見たければ、雨を我慢しなければいけない

 今シーズンの初め、《職業棒球》というCPBL月刊誌がカレンダーを出版するとき、各チームの選手に座右の銘をもらったが、陳禹勳が出した言葉が「虹を見たければ、雨を我慢しなければいけない」だった。その理由を尋ねると、若い時に二度も手術を受けたため、二年間投げられない時期があったからこそ、「最多セーブ投手」という名の虹が見えたからだそうだ。この座右の銘は、友達の勧めで、読書をしてみた後でもらえた言葉だった。あれから、読書の習慣も身につけた。「実は僕は忘れっぽいから、言葉に感動したらすぐ携帯にメモしておきます。投球がうまくいかなかった場合は、携帯を出してもう一度読みます。短い言葉だが、僕にはとても安心感のある存在だと思います。」

  怪我に苦しめられた時期があったため、誰よりもウォーミングアップとストレッチを重要視している。目標は何かと聞かれると、「健康」が唯一の答えだそうだ。健康が一番だとよくわかっているから、「大学1年、2年の時、ずっとボールを拾ってきたから、健康になって投球ができたら、もう絶対二度とそんな嫌な思いをしたくないと思います。ですから、試合に出られるチャンスも、とても大切にしています。」

  強い打者が輩出している時代、投手の成績ランキングの上位は、ほぼ外国人選手が占めていたため、陳禹勳が達成した新記録は、実にありがたいことだ。優秀な成績を持っているだけではなく、いつもインターネットでファンたちとコミュニケーションをするため、「郷長」(ネットユーザーは『郷民』のため、リーダーは『郷長』)と呼ばれるようになった。「ファンたちはよく球場まで試合を見に来て、いつも大声で応援してくれるから、僕たちもみなさんの声援のおかげで全身全霊でプレーすることができたと思います。僕は本当に本拠地で投げることが大好きですよ!」ファンたちのことを、そう感謝している。陳禹勳は故障の時期を乗り越え、どんな困難にも立ち向かうことができるようになり、毎回の登板もファンの声援やコメントも大切にして、個性的な選手として、競争が激しい環境に立つ事ができるのだ。

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陳禹勳Profile

生年月日:1989.05.20(28歳)

身長/体重:182cm/83kg

守備位置/投打:投手/右投げ右打ち

経歴:Lamigo Monkeys(2014~)

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