【CPBL情報】林威助インタビュー「野球が僕の人生だ」

 

 

 

 

 

 

「野球はほとんど僕の人生だ。」日本にいた18年間を振り返って、子供の頃から甲子園の試合を見ていた林威助は、あの球場が自分の本拠地球場になるとは思ってもみなかった。日本から帰国してCPBLで4年間プレーしたが、今年でプロ生活の幕を閉じた。二軍で最後の打席を終え、チームメイトに囲まれている林威助は、こう言った。「28年間プレーをし続けていた野球は本当にここで終わりましたね。ちょっと感動しましたが、感慨深いです。でも、プロ生活が終わったことで、なんだかほっとしましたね。」

取材/黄雅碧 写真/戴嗣松 翻訳/黄意婷

林威助profile

生年月日:1979.01.22(38歳)

身長/体重:179cm/82kg

守備/投打:外野手/左投げ左打ち

経歴:阪神タイガース(2004~2013)→中信ブラザーズ(2014~)

2017.09.30 当たらなくても、バッティングを完成させたかった

  プロ野球で最後になるかもしれない打席に、林威助はみんなに一番よく知られている役――代打として、打席に出た。バッターボックスに入ったとき、頭が真っ白になったそうだ。涙が出てきたせいか、目がぼやけて、結局空振り三振で終わった。

林威助はこう語った。

「あのボールは変化球だったと思う。ツーストライクだったので、見逃し三振かフォアボールより、当たらなくても、バッティングフォームを完成させるのがいいと思った。そのバッティングで、僕のプロ生活が終わったんだ。」

最後の打席で もう少しバッターボックスにいたかった

  9月30日、中信ブラザーズ二軍は二連覇に挑む日で、林威助が引退する日でもある。球場に入りウォーミングアップして、バッティング練習をすることは、いつものようだったが、その前の夜はやはり眠れなかったそうだ。「今日優勝したら、全てが終わりだが…」林威助が笑って話を続け、「もし負けたら、次の日に試合をするから、また眠れないと困りますよね。」真摯的な言葉で話し始めたのに、いきなりユーモアが溢れる言葉が出てくるのが、関西人の性格を持っている林威助だ。

 二軍の決勝戦で、一回戦から三回戦までは、スターティングメンバーとして試合に出場し、すべてヒットを打ったが、優勝に臨む四回戦ではベンチで待機していた。五回が終わって、やっと「主役」の林威助の姿が見えた。しかし、いつも代打のために十分な練習をする林威助は、すこし走っただけでベンチに戻って、八回の代打まで出てこなかった。「一度走ったら涙が出そうでした。ファンの皆さんがが僕の応援曲をずっと歌ってくれていたから、もう、二度と出られない気がして、中でバットを振り続けていました。」

 八回表、中信ブラザーズは13対5でリードしており、ツーアウトランナー一塁の時だった。ファンの歓声を聞いただけで、次が林威助の出番だとわかった。この打席は本人にとってもかけがえのない瞬間だったため、名残惜しい気持ちでいっぱいだった。「普段は一球目が来て、好きな球だったら振ります。でも、今回だけはもっとバッターボックスにいたかったので、2球投げられてもバットを振りませんでした。結果がよくてもよくなくても、これが最後の打席だということは、もう変えられません。」

 結局その打席が終わりを告げた。短い時間だったが、林威助の頭の中では、今まで歩んできた野球人生が走馬灯のように流れて、「たくさんの画面が浮かんできましたね。」

夢が叶って阪神に入り、「父との約束を果たした」

  「小学校の時、父はいつも仕事が終わった後で母を連れて、球場まで見に来てくれました。それが毎日の日課のように続いて、中学校の時まで来てくれていました。」しかし、中学校の頃、代表チームから家へ帰ったら、父が急に倒れてしまった。そのため、台湾の高校へ進学して、父の容体が安定するのを見届けて、日本への進学計画を再開した。ちょうど日本進学が決まった頃、父が急逝した。辛い思いのまま、家族のことも気になったが、父との約束を守るために、日本へ行くことを決意した。

 2002年の冬、林威助が憧れの阪神タイガースに入団した。子供の頃テレビの中継で甲子園の試合を見て、あれから甲子園をずっと夢見ていた。阪神ファンの歓声を浴びながら、甲子園球場で走ることができて、ずっと抱いた夢も叶えた。「僕を選んでくれた阪神球団に心から感謝します。それから、父との約束を果たすことができて、とても嬉しいです。」と、入団した時に言葉を残した。

 2003年、膝の怪我で一年中リハビリをしたため、試合に出られなかった。我慢し続けた一年間を経て、翌年もほとんど二軍にいが、2004年の夏、アテネ五輪の台湾代表として選ばれ、人気に火がついた。2005年、一軍で生涯初のホームランを打ち、長打力を見せた。それからの6年間、一軍での試合が多く、特に2007年には115試合で15本のホームランを残し、日本プロ野球でピークの一年間を過ごした。

ファンの心に残すのは、記録じゃない。記録より、記憶。

 日本に18年間もいて、林威助は自然に日本っぽくなってきた。態度を一番重要視して、一刻も休まない林威助は、実は練習が大嫌いだったことは想像できないだろう。中学校時代の親友で、現在台湾体育大学のコーチである林宗毅によると、林威助は中学校の時よく練習をサボって、ジョギングの時もいつも最後尾で、バッティングだけに集中したそうだ。林威助は「日本に行く前は、本当に練習が嫌いでした。あまり集中しなくても、いいバッティングができたので、それでよかったと思ったんです。だが、日本へ行ったら、そこのトレーニングや教育を受けると、野球はそんなに簡単なことじゃないと思うようになりました。」当時、日本には4000チームもの高校野球部があり、福岡県の約135チームの中、甲子園に行けるのは1チームだったため、真面目に練習しないと、すぐ追い抜かれるに決まっている。日本で進学して、人より努力しなければいけないことを、しみじみと感じたのだ。

 阪神タイガースに入団した後もたくさん学んできた。先輩の金本知憲は、既に優れた成績を持っているのに、いつも試合の後に鏡の前でバッティングフォームを確認していた。その練習が終わらなければ食事に行かないという。そんな自分に厳しい金本にとって、一番の自慢は数多く獲得した個人タイトルではなく、1002打席連続無併殺打という記録だそうだ。いつも全力で走塁しているため、守備側にプレッシャーをかけることで、内野安打で出塁したことも多かった。そんな小さなことを重ね、チームへ貢献した。頑張っている先輩の後ろ姿を見た林威助は、たくさん考えさせたれた。

「日本に十数年もいて、マナーも態度も、野球への尊重も学んできた。

 それが今のわたしにとって、当たり前の事だ。『記録より記憶』と、日本人がよく言う。ファンの心に残すのは、記録じゃない。記録より大事なことが、記憶だ。二軍での引退試合は忘れられるかもしれないが、これから、ファンの皆さんがが僕のことを思い出してくれたら、僕は野球を尊重し、いい態度を見せていた選手だと、そう覚えてほしい。」

家計を担った母に「僕のことを誇りに思ってほしい」

 「今まで野球をしてきて、とてもやりがいのあることだと思います。山あり谷ありの野球人生ですが、全てが大切な経験になったので、野球の道には残念なことがないと思います。」いろいろ挫折してきたが、この道を貫く信念は「絶対に誰にも負けない」と、静かに語った。

 父が亡くなってから、父のかわりに家計を担ったのは母だった。一人で林威助と兄を育ててきたが、文句一つ言わなかった。林威助は小さい頃から、将来母にそんな辛い暮らしをさせないように、頑張らないといけないと思っている。「日本で頑張っていたけど、プロに入って、しかも憧れの阪神タイガースに入団できるとは、思ってもみませんでした。自分は一番優秀な選手じゃないけど、一生懸命頑張っている僕のことを、誇りに思って欲しいです。そして、お疲れ様と、母に言いたいです。」

 二軍での引退試合、母も屏東球場に来てくれた。母親の姿を目にすると、涙が出そうだった。手を振っている母を見たら、すぐ小学校と中学校の思い出が浮かんだ。感動した林威助は、「僕が母を呼んだんじゃなくて、母が自分で来てくれたんですよ!」と、泣いたり、笑ったりしてこう言った。

 林威助が帰国した後、親子の仲の良さもしばしば報道記事で見られる。中信ブラザーズに入団して背番号を選ぶ時も、母の意見を聞いてから選ぶと言った。2014年、左膝の半月板を治療するために、手術を受けた時も、母が病院でいろいろ世話をしてくれたそうだ。今回の引退試合も、親子で抱き合いながら泣いている様子も、周りの人を感動させた。

 家族、チームメイトの支えだけではなく、たくさんのファンの声援も大きな力になった。日本にいた頃、台湾人のファンの応援が聞こえて、帰国した後も日本人のファンが応援に来てくれた。国境を超えて、どこでも応援してくれるこの力に、とても感謝していると語った。何度も怪我で悩まされる時期もあったが、ファンがメッセージをくれたり、励ましの言葉を言ったりしてくれたおかげで、そんな辛い時期を乗り越えることができたのだ。「手紙も、メッセージも、一つ一つ読みます。日本と台湾で野球をしてきて、ファンに愛されているから、自信を持つようになりました。自分の力でプレーするのではなく、みんなの力で頑張ってきました。ファンがいなげれば僕の存在はないと思います。本当に、心から感謝しています。」

野球の道はまだまだ続く 「僕のことを忘れないで!」

  日本プロ野球で11年間、CPBLで4年間、林威助のプロ生活は計15年間で、2017年に幕を閉じた。しかし、これからも野球のために貢献したい。コーチになることが、選択肢の一つだ。「帰国が決まった時、コーチになることについて考えたが、台湾のプロ野球の事は何もわからなかったため、日本のやり方で選手を指導すると、うまくいかない気がしました。それで、いろいろなアドバイスを聞いて、選手として台湾のプロ野球をよく知ったほうがいいと思いました。この4年間、だんだん台湾の環境に慣れてきました。」

 実は、選手としてだけではなく、2014年、中信ブラザーズのバッティングコーチの助手をしたこともある。そのため、試合を見る視点も広がり、自分がコーチだったら、試合中の様々なシチュエーションにおいて、どのような指示や戦術をするかと思うようになった。

 日本と台湾での実績を持ち、野球の道で挫折を乗り越えた経験者でもある林威助は、コーチとしての実力も蓄えていると認められている。しかし、コーチになる前、一番やりたい事は、ゆっくりリラックスする事だ。「今は38歳ですが、後輩に良い手本や態度を見せるため、気持ちを緩めるわけにはいかないと頑張ってきた。引退の後、なんかほっとして、やっとリラックスできるようになりました。」

 いつかまた、指導者としての林威助に会えるだろう。野球への尊重と態度を、伝えていくつもりだ。「これから、僕がどんな仕事をしても、みんなの応援が必要ですから、僕のことを忘れないでください!」と、自分を支えてきたファンに言葉を残した。

経歴

1979.01.22 台湾台中で生まれる

1990 小学五年の時、台中市大仁小学校に転校し野球部に入部

1991 リトルリーグ・ワールドシリーズ チャイニーズタイペイ代表

1992 台中市中山中学校に入学

1993 ポニーリーグ選手権大会 チャイニーズタイペイ代表

1994 LLBジュニアリーグワールドシリーズ チャイニーズタイペイ代表

1995 高雄市中正高等工業学校に入学

1996 日本柳川高等学校に入学

1999 近畿大学に入学

2002.11 阪神タイガースと契約

2004.08 アテネオリンピック野球チャイニーズタイペイ代表。計10打数3安打、1打点

2004.10.10 日本プロ野球初出場。対読売ジャイアンツの試合に、6回裏に桟原将司の代打で出場。真田裕貴(2013年にもブラザーズに入団)の前に中飛

2004.10.11 先発初出場。対東京ヤクルトスワローズの試合に、7番・右翼手で出場。1回表に藤井秀悟から右越適時二塁打で初安打・初打点。

2005.10.04 初本塁打。対横浜ベイスターズ、4回裏に三浦大輔から右越えソロ

2006 「ミスタータイガース」と呼ばれる掛布雅之の背番号を引き継ぎ、背番号を38から31に変更。

2006 ワールド・ベースボール・クラシック チャイニーズタイペイ代表

2006 アジア競技大会チャイニーズタイペイ代表。計15打数6安打、1打点

2007 日本のプロ野球でキャリアハイ。115試合に出場し112安打、打率.292、本塁打15、打点58の成績を残した

2007.12 右肩の治療のため手術を受けた

2009 ワールド・ベースボール・クラシック チャイニーズタイペイ代表、計7打数1安打

2013.10.01 阪神から戦力外通告を受ける

2013.11.28 兄弟エレファンツからドラフト3巡目で指名された

2014.02.17 中信ブラザーズと2年間の複数年契約(最高総額921万台湾ドル)

2014.03.23 CPBL初本塁打。中信球団史上の初本塁打でもあった。

2014.05.14 左膝の半月板の治療のため手術を受ける

2015.01.08 中信ブラザーズのキャプテンを務める

2017.09.2 二軍の優勝戦の終了と同時に引退すると宣言

2017.09.30 代打として出場し、優勝決定戦が引退試合となった